2006.12
ニューヨークでのレッスン
  二度目のニューヨーク。観光はほとんどしないで、毎日バレエ、ジャズなどのレッスンを二、三
受け、夜は観劇の日々。
 アメリカの先生達はとてもユーモアに溢れていて、注意もジョーク。例えば、お尻が出ていると
「こうしているとグラマーを通り越して、牛のお尻になっちゃうわよ!ねぇママ、私のお尻が部屋から出ないのー!」とか、上体が反って股間が前に出ていると、腰を動かしセクシーダンスを踊った挙げ句に、「No!This is the Ballet!」と叩き直す。そんな笑いが沢山のレッスンの中で私が忘れられない言葉は「その手を誰かにプレゼントするように〜」と言われた一言。自分と鏡と音だけじゃなく、もっと感覚をオープンにしなさいって事なんだと思った。
 外国に行っていつも素敵だと思うのは、知らない人とでも目が合うと、笑顔で挨拶し合うこと。外向きな人たち。奥ゆかしくシャイな日本人。各々の個性を大切にイイ表情に繋がっていくのが理想的。


2006.11
 私は今も自分の反抗期の終始をよく覚えている。小学校5年生からフェ−ドインし、終わりは6年生後半のある日。
 あの時なぜ、色々な事にイライラしなくなったかを考えたことがある。多分親だって絶対ではないんだと気づき、ある意味諦めたからであろう。サイボーグ的だと思っていた両親に人間臭さを感じたのだ。
 それまで私にとって両親は絶対的存在で、右と言われれば何の疑わず右が正解だと思っていた。だから少しずつ家族以外の社会(なんて言うと大げさだが)が見えだした時に違和感を覚えた。そんなことを感じている自分も苛立たしかったのだろう。
 反抗期が終わっても、自我の確立した私と両親の間に対立が無くなるはずはない。私は長女だった為、その時々のルールを自分で切り開いていかなければならなかった。小遣い、門限、外泊、バイト等々(笑)。
 妹弟はと言うと、私と両親との関係が基準になり、いろいろなことが円滑に進んでいたように見える。ずるい。でもこれが最初に生まれた者の役回りなんだろう。今はまさに”子育てのプロ”になった両親も私のときは”子育ての素人”だったんだなと納得してしまう。
 子供達全員皆が巣立つ来春、果たして両親は長い子育てから解放させられるのだろうか。祖母が母に言う「今何時だと思ってんだい!」。


2006.10
取り憑かれた足
 月に十本前後は舞台、ライブ、映画に行きます。まるで毎日結婚式でもあるかのように、お金が飛んでいき私は観劇貧乏。しかも値段と内容のバランスに納得できるものは半分。その中で、面白いのは三分の一、二。この代金は安すぎる!と思うのは半年に一回位。お金捨てたな…そう思わせられる事は度々で怒りたくなる。でも観に行ってしまう・・・三分の一を求めて。心が何かに包まれたり、握り潰されたりして、身体から力が抜ける感覚。創り手観客が裸になり合う瞬間。忘れられない、それを見つけに今日もまた劇場へ足を運ぶ。


2006.9
私がバレリーナに夢破れたのは8歳。だった?と思うでしょうが、決して冷めた子供だった訳ではありません。バレエとはそういうものなのです。
 海外のバレエ学校では、骨格、柔軟性、両親や祖父母の体型までを見て合否を決める所もあり、素質の無い子には、どうぞ別の道をと勧めます。ある意味それが最高の優しさだからです。その点、日本は違う。誰でもできる!才能無しと判りながら、踊る事が好きだった私に両親は無駄銭をはたき踊りを続けさせてくれました。そして十歳の秋に出会ったミュージカル。その後出会った芝居・・・バレエは生かされていると思うんです。あとは私の運と才能とこれからの生き方‘無駄銭’か否かが決まる訳ですよ。


2006.8
夏と言えば、私の故郷徳島では阿波踊りがなんと言っても大イベント。あちらこちらで鳴り物が響き、踊りまくって街も人も大騒ぎ!。
 子供たちは夜遅くまで外出が許される魔法の4日間。しかし楽しみはそれだけじゃない。翌朝早くに集まった子供たちは、祭りの終わった街にあるものを探しに行く。道の端やら屋台の下やら…。
 「ジャリ銭拾い行こ!」その一言で、今年もどこかの祭りの後を、子供たちが走り回ってたらいいな〜。

2006.7
私は役者として演技する他にシャンソン歌手としての活動もしています。何故その歳で...?と頻繁に問われます。確かにシャンソンといえばドレスに厚化粧。けして若いとはいえないイメージがあります。私も以前はそんなイメージを持っていました。でもある時耳にしたそれは、今まで聴いたり歌ったりしていたものとは全く違うものでした。カルチャーショックで立ち上がる事さえ出来なかったんです。本当の“うた”ってこれなんじゃないか、歌が上手いとか下手とか、そんな世界を飛び越えて少女から老婆まで歌い演じるその歌い手は、女優そのものでした。
 1曲が映画1本分にも感じられる空間。だから私もそこに立ちたいと思ったのです。


2006.6
こんな私も、何度か取材を受けた事があります。(と言っても地方メディアですが…)どれも実際、世に出るモノの数倍の時間を掛けて取材しているので、いつも編集には感心してしまいます。先月から私もこうしてコラムを書いているわけですが、言いたい事を全て書く方が簡単で、それを”切る”作業が素人には難しいのです。私の友人に、ある出版社でこの作業やっている人がいて、重要なのは作者と交流を持たない事なんだと言っていました。下手にその人の思いを聞いてしまうと”切り”に躊躇してしまうらしいです。納得。
 で、私が受けた取材の話に戻るんですが、A新聞の場合、いくつかの質問の後、写真撮影という予想通りの感じでした。B雑誌の場合は、私服のまま公園で踊る写真を撮りました。私服&普段靴で踊るのに違和感があったのを覚えています。DTVの場合は『日常の私』を撮る為に自転車で走り回り、その横(もちろん道路)からカメラが追いかけて撮影し、これって大迷惑じゃん!なんて思ったものです。その後、自宅で又、又、私服で柔軟をしてくれと言われ(これも私的にはありえないんですけれど)黙ってやりました。踊り手って、道でも部屋でも、格好関係なく踊っていると思われているのかなぁ、なんて思いながら…。
 でも、その後、出来上がったモノを見るとどれもとても良かったんです!流石でした。そして一番驚いたのは周りからの反応でした。あんなに小さな記事や特集でも、こんなに沢山の人が見ているんだって、その為に一生懸命働いている人が沢山いるんだな〜って心を打たれました。
やっぱりバカに出来ない。恐るべしメディア!!

2006.5
 五月の雨上がりの夜、数日間だけ街にたちこめる悶え喜びたくなる程私を幸せにするモノ、「新緑の香り」。これを“緑”の香りと教えてくれたのは母。母は何でも匂いで判断する人で、良い物悪い物、好きな物嫌いな物、食す物食さない物・・・驚くくらいこだわる。そんな彼女をいつも私は「嗅ぐ女」と呼んでいる。
 学生時代、試験日の朝の食卓には頭をスッキリさせるという理由から、必ずオレンジが置かれていた。嗅ぐことに意味があるという母の考えにより、決して食べることは許されない。
 だがある日、時間が無く、取りあえずと口に入れ登校した。最初はいつも通りのつもりだったが、調子が出ずスッキリしない。そして気が付いた。やはり母は正しいのだと。以来私も、匂いに重点を置いて生活をする様になった。
 今月からASA仙川さんで始めたバレエ教室にも、これから色々な“香り”を用意しようと思っている。毎日のストレスを吹き飛ばせる様な“香り”の中でのレッスンなんて素敵だとは思いませんか?

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